2013年1月11日金曜日

齋藤孝による、『学問のすすめ』の現代語訳 その2


“世の中の悪いことわざに、「泣く子と地頭には勝てない」とか、また「親と主人は無理を言うもの」というものがある。これらを、人権など侵害してもかまわない、といったニュアンスで使うものがあるけれども、これは現実のあり方と権理をとりちがえた議論である。地頭と百姓とは、現実のあり方はまったく異なるけれども、それぞれが持つ権理は同じである。百姓の身に痛いことは、地頭の身にも痛い。地頭の口に甘いものは、百姓の口にも甘い。痛いものを遠ざけて、甘いものを求めるというのは、人として当然の感情である。他人の迷惑にならないで、自分のやりたいことをやるというのは、その人の当然の権理なのである。
 この権理に関しては、地頭も百姓もまったく違いがない。ただ、地頭は金があり、権力を持ち、百姓は貧しくて弱いという違いがあるだけだ。貧富強弱は、現実のあり方であって、みなが同じというわけではない。であるから、金があって社会的権力が強いからといって、社会的弱者へ無理なことをしようとするなら、これは力の差を利用して他人の権理を侵害することになる。
 これをたとえていえば、相撲取りが、腕の力があるからといって隣の人の腕をねじり折るのと同じだ。隣の人は、もちろん相撲取りよりは弱いけれども、弱い鳴りにその腕を使って自分の目的を達して問題なく生きているのに、理由もなく相撲取りに腕を折られたとすれば、迷惑の極みである。”




引用元

福澤諭吉. 現代語訳 学問のすすめ, (齋藤孝). 筑摩書房. 2012.

2013年1月10日木曜日

齋藤孝による、『学問のすすめ』の現代語訳


“「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。
 つまり、天が人を生み出すにあたっては、人はみな同じ権理(権利)を持ち、生まれによる身分の上下ではなく、万物の霊長たる人としての身体と心を働かせて、この世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、自由自在に、また互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽にこの世を過ごしていけるようにしてくれているということだ。
 しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる、貧しい人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。
 その理由は非常にはっきりしている。『実語教』という本の中に、「人は学ばなければ、智はない。智のないものは愚かな人である」と書かれている。つまり、賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。
 また、世の中には、難しい仕事もあるし、簡単な仕事もある。難しい仕事をする人を地位の重い人と言い、簡単な仕事をする人を地位の軽い人という。およそ心を働かせてする仕事は難しく、手足を使う力仕事は簡単である。だから、医者・学者・政府の役人、また大きい商売をする町人、たくさんの使用人を使う大きな農家などは、地位が重く、重要な人と言える。
 社会的地位が高く、重要であれば、自然とその家も富み、下のものから見れば到底手の届かない存在に見える。しかし、そのもともとを見ていくと、ただその人に学問の力があるかないかによって、そうした違いができただけであり、天が生まれつき定めた違いではない。
 西洋のことわざにも、「天は富貴を人に与えるのではなく、人の働きに与える」という言葉がある。つまり、人は生まれたときには、貴賎や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人になる、ということだ。”





引用元

福澤諭吉. 現代語訳 学問のすすめ, (齋藤孝). 筑摩書房. 2012.